私は、1956年(昭和31年)に福山市春日町で、兼業農家(父は造園業、母は非正規労働者)の4人兄弟の長男(妹と二人の弟)として生まれました。第二次世界大戦後まだ10年ほどが経過したばかり、子どものころ遊んだ隣りの同級生の家の土間には鉄兜が転がっているほど、戦争の記憶が生々しい時代でした。
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父方の祖父は、昭和5年生まれの父が15歳であった昭和20年に沖縄戦で戦死し、長男の父は15歳で家督を継いで、祖母・伯母・叔父・二人の叔母の6人家族の生活を支えて、厳しい農作業に明け暮れました。
母方の祖父も、昭和10年生まれの母が10歳だった昭和19年にサイパン島で戦死しました。母は後に35歳で広島県立福山誠之館高等学校通信制を卒業するほど勉強が好きでしたが、中学校を卒業した際には涙を飲んで高校進学をあきらめて、ゴム会社に就職し、祖母と叔父二人の4人家族の生活を支えました。
先の世界大戦においては、300万人の日本人が外地で、広島・長崎で、日本の各地で亡くなりました。ですから、こうした生活や社会環境は戦後の日本の普通の姿だったのですが、なぜか私は非常な痛みを感じずに受容することができませんでした。私は幼少のころから、「なぜ戦争が起こるのだろう?」「どうしたら戦争を防ぐことができるのだろう?」という疑問を抱き続けていました。また、高校2年生(17歳)の夏に先輩に誘われて、日本原水協の原水爆禁止世界大会に参加して以来、「どうしたら核戦争を防ぐことができるのだろう?」という疑問も強く抱くようになりました。
周りの大人たちの回答があまり要領を得なかったものですから、この疑問を解き明かして、教師になって生徒たちに戦争の真実や戦争を防ぐ方法を語り続けたいと願って、高知大学文理学部(文学科史学専攻)に進みました。
入学1ヵ月後の4月30日に、ベトナム戦争がアメリカ帝国主義の敗北で終わりました。その意味を知りたいと「赤旗」を読み始め、日本帝国主義のアジアでの侵略戦争に命がけで反対した党=日本共産党があったことを知り、まさしく目から鱗が落ちる思いでした。この党がいっそう大きくなれば、核戦争も戦争も必ず防げるという思いを強く持ち、大学1年生の夏18歳で日本民主青年同盟に加盟し、翌年初夏に19歳で日本共産党に入党しました。
毎日活動に飛び回っているばかりで、学業をおろそかにしてしまったために結局中退してしまったことを反省していますが、大学進学に際して抱いていた疑問を解明し、日本共産党や民生同盟の大勢の仲間たちとの共同の活動の中で、新しい戦争や核戦争を防ぐ語り部になることができたことを、現在でも心から幸運に思っています。
卒業論文を残して帰郷し、福山市内で働きながら、日本民主青年同盟の活動を続けました。中退した年に日本民主青年同盟の専従者となり、1983年26歳の春、1987年30歳の春に広島県議会議員選挙(芦品郡区)に立候補しました。自民党の中曽根首相が「日本列島を不沈空母にする」と言ったり、「この顔が嘘をつく顔に見えますか」といいながら嘘で偽って「売上税」という名で消費税を導入しようとすることの是非が問われた時期でした。
その後、自営業を携わり、子育てをしながら緑丘学区子ども会育成連絡協議会の会長、広島県福山市立緑丘小学校PTA会長を務めました。また3期9年間福山市区の民生委員・児童委員を務め、児童など若い世代の教育や健全育成、高齢者福祉の充実のの必要性を痛感しました。
また、日本共産党春日支部長としての20数年の活動、福山民主商工会常任理事・福山生活と健康を守る会の役員(本年4月からは会長)としての10数年来の活動、一昨年(2010年)秋から本年夏までの住民無視の超高層(11階建て)分譲マンション建築反対の運動(ポレスター春日町近隣住民の会の運動)の代表としての活動や固定資産税の評価替えを求める今年夏以来の活動の中で、中小業者や生活弱者の暮らしと営業を守るために、日本共産党の立党の精神である「国民の苦難解決のため」の日常的な活動の一端を担えたことを光栄に思います。
今年8月、民主党野田政権の公約違反・国民への裏切りと、自民党・公明党の手助けによって消費税増税法が成立し、社会福祉・社旗保障制度の改悪が強行されました。
37年の党生活、売上税反対の活動以来30年来の活動の決着として、来るべき総選挙でなんとしても、消費税に頼らない別の道で社会保障の充実と財政危機打開の道を指し示す日本共産党の躍進を勝ち取り、民主党・自民党・公明党の消費税増税勢力にきっぱりと審判を下し、消費税増税廃止法案を成立させる国会をつくりたいと考えて、立候補を決意しました。
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