今日(2月20日)は、多喜二が虐殺されて80年の祈念日です。
昨(19)日付けの「しんぶん赤旗」10面に、随時掲載の「没後80年 小林多喜二と現代④」が載りました。
筆者の荻野富士夫さん(小樽商科大学教授)は、
「多喜二は32年4月に地下に潜行して以降、早晩の検挙と拷問での死をも覚悟していた節がある。9月に最後に母セキと会った際、『今警察に捕らえられたらどんな目に会うか判らないが、こうした時世に生れ合わせたのが自分の不運』としつつ、『屹度(きっと)いつかの時代には自分達の考え方が世間の人にも納得出来ることになろう』と語っていたのである(『母の語る小林多喜二』)。『何代がかりの運動』(「東倶知安行」)からいえば、まだ発端に近いところの犠牲の一つであり、『火を継ぐもの』が続くことを確信していた。
あらためて、なぜ多喜二が33年2月に殺されるのか、と問えば、多喜二自身が(「一九二八年三月十五日」に=神原注)つづく「蟹工船」以降も新たな創作課題を設定・実行し、プロレタリア文学の幅と奥行きを広げ、『典型的な、理想的な、左翼の戦士』(多喜二没後の大宅壮一の皮肉抜きの発言)に成長していったことに、特高警察を先兵とする支配者層の脅威が集中したからといえる。
そして、その脅威を現実的なものとしたのは、32年以降の、藤倉工業の毒ガスマスク製造工業労働者の反戦活動を描いた「党生活者」をはじめとする多喜二の小説・評論、そして日本プロレタリア作家同盟書記長として、日本反帝同盟執行委員としての実践活動が、すべて「満州事変」後の反戦・反軍運動に収斂(しゅうれん)していったことである。
多喜二虐殺の報に、フランス共産党の機関紙「ユマニテ」は『過去数ヶ月間に彼は決然として、極東における帝国主義的略奪戦争および反革命戦争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった』と的確に記し、『彼の不屈の革命的活動は日本帝国主義の脅威となっていた』と評価した。この再確認こそが、多喜二虐殺80周年の大きな意義であろう」
と記しておられます。
お見苦しかったでしょうが、ほぼ後半の全てを引用してしまいました。
ぜひ昨日付けの全文に目を通してください。
火を継ぐ、多喜二後3・4代目が私たちなのですから。
T: Y: ALL: Online:
ThemeSwitch
- Basic
Created in 0.1144 sec.
Comments